修験道

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修験道とは

修験道は、山に籠り、厳しい修行を重ねていく事で様々な験力を得ることを目的とした日本独自の宗教形態です。日本古来より伝わる山岳信仰に、神道、陰陽道、そして外来教である仏教、道教等を取り入れた純日本的な独自の宗派で、これを実践する者を「修験者」または「山伏」と言います。ご開祖は「役行者(えんのぎょうじゃ)=役小角(えんのおずぬ)」、奈良時代、大和の国葛城群茅原の里(現在の奈良県御所市)に生まれた山林行者。幼き頃から寺で仏法を含め様々な学びを深め、その後葛城山、金剛山で修行を行ない、さらには大峯、熊野の山々で更なる修行を重ね、金峯山山上ケ岳において、ご本尊である金剛蔵王大権現を感得し、修験道の礎を築きました。修験道は自ら修して、自らその験しを得るところに真髄があります。修するとは、役行者の教えの道を修する事であり、験しを得るとは、単に験力や神仏の加護を獲得するではなく、究極は自らの菩提心を得ることに他なりません。自らの身体で体験し、その精神を高めていくという修験道のあり方は、現代にこそ必要な万人に向いた親切な教えであると言えるでしょう。

修験道の歴史

修験道の歴史

修験道の歴史

日本では、古来より森羅万象に神々が宿ると考えられ、特に山は神様そのものであると考えられてきました。この山岳信仰に外来教である仏教の教えや、道教の入山修行が取り入れられ山に籠り修行をする人々が増えました。そしてその中の一人に「役行者(えんのぎょうじゃ)=役小角(えんのおずぬ)=神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」が現れ、修験道として体系づけ、ご開祖となられました。その後平安時代にはさらに盛んに信仰されるようになり、密教との結び付きも強くなります。江戸幕府の頃には修験道法度が定められ、真言宗系か天台宗系のいずれかに属さなければならなくなり、そして明治元年の神仏分離令に続き、明治7年には修験道禁止令が出され、事実上修験道が禁止となる。また廃仏毀釈により修験道に関係する物も多く破壊されました。その頃実に17万人の修験者がいたと言われ、今の人口比率で言うと実に60万人に値します。そして日本国憲法が施行された昭和22年、「信教の自由」により修験道は復活します。そして1300数十年を経た現代にも、開祖役行者の思いはそのままの形で受け継がれています。

修行について

修行について

我々修験者は、大和金峯山を修行の場とし、その深山幽谷に入峯し厳しい修行を行なう事により、「験力」を得て衆生諸々を救済してまいります。その入峯修行に「大峯奥駈修行」や「蓮華奉献入峯」があります。

大峯奥駈修行

大峯奥駈修行

大峯奥駈修行

大峯奥駈修行は、奈良県吉野山の蔵王堂から和歌山県の熊野本宮・那智大社までのおよそ180キロの道のりを、道中の「靡き(なびき)」と呼ばれる75ヶ所の拝所、霊所を、ひとつひとつを巡拝しながら、山上ケ岳、弥山、八経ケ岳、釈迦ケ岳など、2000m近い山々の尾根をたどりながら行じてまいります。この大峯奥駈修行は、山脈を仏法で云う金剛界(吉野側)と胎臓界(熊野側)に見立て、その場所を巡拝しながら即身成仏し、そして生まれ変わるという擬死再生の修行を行なう場所ともされています。修験道の中でも最も過酷で厳しい山林修行と言われています。

蓮華奉献入峯

蓮華奉献入峯

蓮華奉献入峯

蓮華奉献入峯は毎年七月七日に、総本山金峯山寺で行われる蓮華会で、奈良県大和高田の弁天池から採取した蓮の花を金峯山寺蔵王堂、そして大峯山山上ケ岳山頂の大峯山寺(旧称山上蔵王堂)にお供えするため、入峯修行を行ないます。翌日八日未明に蔵王堂を出発し、途中にある拝所に蓮の花をお供えし、お勤めをしながら24キロの道のり、標高1719メートルの山上ケ岳へ登拝します。大峯山寺に蓮の花を献花後、境内の護摩道場において採灯大護摩供を修法し、天下泰平五穀豊饒を祈り、また全国教信徒の仏果増進と所願成就を祈願します。また初めて参加される新客は表行場、裏行場と呼ばれる修行場も行じてまいります。有名な「西の覗き」の修行もここで行なわれます。

入峯修行への参加

入峯修行への参加

入峯修行への参加

当院では、当院教師が毎年本山、並びに別格本山東南院が行なう「大峯奥駈修行」「蓮華奉献入峯」「富士山登拝修行」に入行しています。一般の方も参加可能ですが、単なる登山気分や、健脚で無い方の参加は認めておりません。山中には、文字通り「命がけ」の行場が多々あります。ご自身の修行の為入峯希望したい方はご相談下さい。また当院では不定期ですが、大峯山、近隣の金剛山、生駒山等への登拝修行会も開催しておりますので、こちらへの参加ご希望の方もご相談下さい。